4月号, 2010
手毬唄かなしきことをうつくしく 虚子 戦前 和声
『五百五十句』所収。昭和十四年の虚子の句だという程度の知識で書かせていただきます。
この句を見たときに私が感じたことは、ある程度年をとった女性が唄っているのを聴いて、
それを句にしたのかなということです。
手毬唄、といってもどんな唄なのかはわかりませんが、「かなしきこと」というのですから、詞の内容が悲しいのでしょう。
私が知っている手毬唄は、メロディーについては日本音階で物悲しい感じがする曲が大半です。
ところが詞はさまざまで、子供にとってみれば単なる言葉の羅列に過ぎない唄がほとんどだと思います。
ただ毬を突くリズムに合わせて言葉を付けているので、語呂合わせや数遊びのようなものが多いように思います。
当然小さい子供は詞の意味など考えません。
ただ聴き覚えで唄っているものです。
そういう子供が唄っている唄を美しいとは表現しないように思います。
可愛いとか上手だな、ということはあるでしょうが。
正月に手毬唄をごく自然に口ずさんでいる女性。
本人は詞が口をついて出てくるのを自然に唄っているだけですが、聴いているほうは悲しい詞がよくわかって、しかもその唄が何ともうつくしいと感じている、という風景なのではないでしょうか。
2月号, 2010
蜘蛛に生まれ網をかけねばならぬかな 虚子 戦後 良
「七百五十句」所収。昭和三十一年七月、鹿野山神野寺稽古会での作。
季題は「蜘蛛」。
昭和三十七年夏、山中湖の虚子から立子への通信に「杞陽来。文章談。
余を蜘蛛のやうだといふ。起り来ることを待ってをるという意味」とある。
虚子の胸の内は知るべくもないが、あれこれ推測することは許されるかもしれない。
この通信を念頭に置けば、虚子が蜘蛛の上に我が身を投影していること、
又は杞陽の目に映った我が身に思いを馳せていることは読み取れる。
虚子の思いは、「蜘蛛も人も、斯くして生きねばならぬ」という嘆息であろうか。
それとも、骨太の明治人たる八十三才の虚子にとっては、蜘蛛を人と同列に論ずるなど、烏滸の沙汰であろうか。
又は、大宇宙、大自然の中にあっては蜘蛛とても同朋であり、「あはれ」と観ずる悠々たる境地であろうか。
俳句に寓意を求めすぎることはつゝしまねばならないと思うが、この句は、折に触れ、つい思い出してしまう。
さて、眼前の蜘蛛はひたすら網をかけている。
人に愛されぬ蜘蛛とは云え、その働きの精妙なこと。
出来上がった蜘蛛の囲の何と美しいことよ。
1月号, 2010
旧城市柳絮とぶことしきりなり 虚子 戦前 六平
句を見て、はたと膝を打つ思いだった。
「柳絮」とは本来、外国のものなのではないだろうかと。
外来語(漢語)である上に、訓読みも存在せず、僕はまだ一度もこれを国内で見たことがないからだ。
見たのは、二十年前にシアトルやバンクーバーにいた時のこと。
つまり、北アメリカ大陸の西北部(ノースウエスト)に於いてである。
サマータイムが始まる(四月第一日曜日)と、この白い物体が舞うようになり、これが飛び終ると、
いよいよ日が永くなってくるのだった。
インディアン居留地へ向かう途中の車のフロントガラスに瞬く間に降りつもって、
ワイパーで払わなければ視界を確保できなかったし、
州立大学の広大なキャンパスは前夜に雪でも降ったかのように、一面が真白に埋め尽くされていた…。
この唯一の経験から、僕にとってこの季題は「大きな景」にこそふさわしい。
だから柳絮は「根岸の里の侘住ひ」にではなく、「旧城市」に舞わなくてはならないし、
その飛び方も「しきりと」でなくてはならない。
句の詞書を見ると、はたして「…満州旅行の途に…」とある。
ご承知の通り、満州とは即ち、中国大陸のノースイースト(東北部)である。

12月号, 2009
山門も伽藍も花の雲の上 虚子 明治 伸子
『五百句』所収。明治二十九年作。
「花の雲」は、桜の花が一面に満開になるさまを雲に見立てていう「花」の傍題である。
参道を歩いている。参道の先には石段があり、石段はそう高くない山へと続いている。ちょうど花の季節だ。
満開の桜が、木立に隠れている石段の在り処を示している。
更に目を遣ると一段と花の色が重なるところに神門が見えた。
その少し先には本殿も望まれた。
ここ参道から見るとそれはまるで、満開の花の雲の上に建っているようであった。
今年四月、英主宰や句仲間とともに吉備の国に吟行に出かけた。
右は吉備津神社を訪れたときの実景である。
参道から吉備津神社を望んだとき、まさに「花の雲」という季題を実感し、また神社と寺院の違いこそあれ、
掲出句の意を具体的な景として理解することができた。
この吟行で英主宰が詠まれた句は、
すでにして千木望まるる花の雲 英
であった。
もしかするとあのとき、主宰や句仲間の脳裏にも虚子のこの句が浮かんだのではないだろうか。
ちなみに五句集では「七百五十句」に
山隅に咲き出でたりし花の雲 虚子
があるが、掲出句の方が「花の雲」の広がりがわかる。
11月号, 2009
秋扇や淋しき顔の賢夫人 虚子 明治 紘二
『五百句』所収。明治三十九年、虚子三十二歳の句。
季題は「秋扇」、秋になってなお用いている扇か、または不用になってもしばらくは手近かな所にころがっている扇をいう。
旦那は教授か作家、寅さんのいわゆる「さしずめインテリだな」と思われる。
「賢夫人」は、美人でなければならない。
その淋しさには〈やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君〉と共通のものがあったとしても、
その容貌は与謝野晶子のような顔ではあるまい。
作者には、明らかに「賢夫人」に対する同情の念がある。
「賢夫人」という言葉には、矩を踰えない、自己規制の響きを感じる。
明治三十年代、明治初期の文明開化に逆行して、儒教的な道徳や規範を復活助長する動きがあった。
女性論・家庭論では「女大学」的な良妻賢母を、国を担う女性の役割として位置づけ、富国強兵に結びつけていく。
福沢諭吉は晩年、それに危機意識を持って、明治初年から説いていた男女同等や一夫一婦制といったモラルの確立を、
再び「女大学評論」や「新女大学」で説いたのだが、成功せず、その戦いに敗れたのであった。
「賢夫人」の淋しき顔には、日清、日露の戦争を経て、特に顕著になった旧道徳への回帰と、
やがてなだれ込む国民総動員体制への、翳が萌していたのかもしれない。

10月号, 2009
狐火の出てゐる宿の女かな 虚子 戦前 百舌鳥
昭和四年、「五百句時代」所収。
二人の男が思いがけず田舎宿に一夜を過ごすことになった。
一人が宵の窓に目をやると、尾根伝いがちらちらと明るい。
この先に人家は無いはずだが……。
「何だい、ありゃあ」
「おおかた狐火だろうよ。そういや女将はこんな田舎には珍しい美人だったなあ。ひょっとしたら……」
そんなことを言っていると声が掛かる。
「お食事の支度が整いました」
『虚子自傳』に幼時の思い出として「私は母の膝に乗つて(中略)高縄山の麓に灯る狐火をこはがつたりしたとある。
文明開化となり明治大正を経ても、戦前は「狐」に「化けるもの」の雰囲気があった。
むろん正体の知れぬ怪し火を狐の仕業としてみる程度のことだが。
ところで四国は全般的に古来、狐にまつわる説話が少ない。
それは四国が狐の棲息のほとんど認められぬ地域なためで、
もろもろの理由付けには、代わって狸や川獺があてられた。
そのため松山で狐火と言われても、かえって落ち着かぬ心持がする。
前掲の高縄山の狐火のエピソードは、末っ子を可愛がる母の機転によるものかもしれない。
9月号, 2009
草市ややがて行くべき道の露 虚子 明治 和子
『五百句』所収。「明治四十一年八月十四日 蕪むし会。第七回。寒菊堂」の詞書あり。
『年代順虚子俳句全集第二巻』を見ると、蕪むし会は明治四十一年一月十五日に第一回が開かれ、
同年中に九回行われている。
主な参加者は東洋城、三允、蛇笏、水巴、松濱などである。
明治四十一年の八月は虚子が日盛会を催している最中であり、この十四日は日盛会を休みにして、
蕪むし会に出席していることになる。
その日の一回目は「新涼」、二回目が「草市」の兼題である。
『年代順』に記す当日の虚子の「草市」の句は次の四句である。
一つともす走馬燈や草の市
宿の前草市たちぬ宵のうち
草市ややがて行くべき道の露
草市の草の高値ぞ淋しけれ
さて掲出句、どこかで見たような言い廻しである。
一つは在原業平の「つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを」。
『伊勢物語』最終章の歌として記憶されているものだ。
他にも謡曲や浄瑠璃の詞章にもありそうな語句である。
他の三句が草市の具体的な写生となっているのに対して、草市→盂蘭盆→自らの死という連想の中で
おのずから口をついて出てきた句という印象である。

8月号, 2009
夏の月皿の林檎の紅を失す 虚子 大正 光代
大正七年七月八日虚子庵小集。
芥川我鬼、久米三汀等来り共に作句。
当夜夏の月の兼題で、虚子の句は
夏の月廂かくして芝明し
夏の月人語其辺を行つたり来たり
夏の月皿の林檎のたゞ青し
等であった。
掲句は「紅を失す」と推敲されている。
初句の「たゞ青し」とすると、まだ青い林檎が、月の光でますます青く見えたという鑑賞になる。
「紅を失す」と字余りの強い表現にすると、情景は一変する。
涼しき中にもどことなく暑さが感じられる夏の月が部屋に耿耿と射し込んでいた。
皿の上の赤い林檎が血の気を失ったように青黒く不吉な色に見える。
林檎は赤いという概念を捨てたインパクトの強い下五である。
部屋にある見慣れた他の物もみな、静まりかえって夜の帳の中で、静止している。
活気にあふれていた夏の一日が終わった。
月光に映し出されたモノクロの部屋。
そこに居る作者の疲労や安堵までが伝わってくる。
清澄な秋の月では、不調和であるとおもえる。
掲句は虚子が主観から客観写生へと目を向け始めた時期。
この句も紅を失すと見た(感覚)主観と、月光に青ざめて見えた(視覚)客観の主客両観が
合している句のように思えた。
7月号, 2009
よろ〵と棹がのぼりて柿挟む 虚子 戦前 一泊
熟れきった柿を目指して、「よろよろと」伸びてゆく長い竹棹。
背景は真っ青に澄みきった空。鮮やかな秋の色がまぶしい。
句集『五百五十句』所収。
棹を持つ人は板塀の向こうにいて見えない。
孫にせがまれた祖父だろうか。
「もっと上の大きいの」「もっと右」なんて孫の黄色い声が聞こえる。
それとも子ども同士か。
柿は高いところにあって、一番の年長がうんうん言いながら棹を懸命に持ち上げる。
ほかの子どもがはやすなか、ようやく獲物に届き、一斉に歓声が上がる。
この句が詠まれたのは昭和十五年。
日中戦争から太平洋戦争にさしかかる時代である。
子どもたちは、食べられるものは何でも食べた。
甘柿は最高のおやつ。
大きな柿の木にはたいてい竹棹が立てかけられていた。
先を割り短い棒を差し込んで隙間を作り、ここへ実のついた枝を挟んでくるくる回しちぎり取る。
いま、田舎へ行くと柿の特産地でもなければ、柿の実は鈴なりのまま、鳥がつつくにまかせ、
子どもは見向きもせず、その姿は見えない。
想像を刺激されるまま少々説明を試みたが、句を読み直してみると余分なことか。
十七文字に込められたいつの時代も変わりない自然の移ろい、人の営みのなかの秋の色鮮やかな光景。
それだけを感じれば十分なのかもしれない。
6月号, 2009
浦安の子は裸なり蘆の花 虚子 戦前 伊紀子
『五百句』所収。昭和六年十一月
武蔵野探勝第十六回。
この日は深川の高橋から浦安行きの汽船に乗った。
当日の吟行記によると「汽船といっても隅田川の一銭蒸気といづれ劣らぬほどのもので、
狭い汚らしい船室に茣蓙を敷いたばかりの座席と腰掛が並べられ(中略)
絶えず機械の響きに体がブルブル震えた。ガソリンの臭いにも苦しめられた」とある。
船はあちらの岸こちらの岸にしばしば着けられ、釣棹をかついだ人や大きな荷物を背負った人を乗せ、
ようやく浦安に着いたのである。
船から上がった大勢の人はほとんど鯊釣に行く人であった。
一行も続いた。海へ注ぐ川が町の真中を流れていて、冬になると海苔舟が出るという。
橋の袂に葭簀張の小屋が建てられて獅子頭などが飾られ子供が大勢集まっているが、
祭りの賑わいはみえない。
淋しい町である。
この先は沖の百万坪と云われたところで、末枯れた蘆原が広がっている。
漁師の子供達はシャツなど着ないで家の手伝いをしたり、遊んだりしていたのであろう。
句会をした船橋屋は、海の家のような茶店で、今はそのあたりに文化会館が建っている。
見渡す限りの蘆原も消え、鉄道や湾岸道路の向こうには青い海が広がっている。

5月号, 2009
家持の妻恋舟か春の海 虚子 戦後 和子
『六百五十句』所収。昭和二十四年四月二十六日、年尾、立子らと共に、
能登半島七尾の和倉温泉、加賀屋旅館に宿泊した折の句
(加賀屋近くの弁天崎源水公園に句碑あり)。
さて、「家持の妻恋舟」とは何であろうか。
家持は、万葉の歌人、大伴家持。越中の守として天平十八年(七四六年)、
現在の富山県高岡市伏木の国府に赴任した。
当時は能登も越中に編入されており、家持は任地の視察のため、七尾を訪れている。
万葉集には五年に及ぶ彼の越中時代の歌が二二三首載っているが、
「妻恋舟」と詠んだものは特にない。
「妻恋」とは男女が相手を恋い慕うことであるが、家持は妻恋の情を詠んだ歌を数多く作り、
妻の坂上大嬢や恋人たちに贈っている。
また、「舟」を詠んだ歌の中に妻恋を思わせる歌が二首ほどあり
(実際は恋愛感情を詠んだものではなく、友情や遊興気分を歌ったものだが)、
「妻恋舟」はそれら家持の歌のイメージからの虚子の造語であろうと思われる。
穏やかながら何処か物憂げな春の海とそこに浮かぶ舟。
それは都に残してきた妻を思う万葉人のやるせない心を思わせて大歌人を偲ぶ一句になったのであろう。
さて、和倉温泉の海岸に近頃足湯施設ができた。
その名も「妻恋舟の湯」。ネーミングは掲句に由来している。
