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酉の市
「酉の市」の季題研究を、ひろしさんが二〇〇六年十一月九日の「夏潮」渋谷句会でなさった。
それを聞いて、「酉の市」はただお祭に行くだけで、起源や特色を何も知らなかったことに気づかせられた。
「酉の市」は「酉の
祭
(
まち
)
」ともいい、その昔、関東武士の武運を祈る祭礼として始まった。
祭神は日本武尊で、その命日が十一月の酉の日だったため、祭礼の日と定め、その日に立つ市が「酉の市」である。
関東特有の行事で、名古屋・静岡にも残っていることから、家康が江戸に持ち込んだという説もある。
市が始まって以来、一度の中断もなく続いていて、そういう市は珍しい。
日本武尊が祭神の「武運」を祈る祭礼だったのが、江戸時代の戦もない長い平和で、参る人が減ったのを、「武運」を「開運」と拡大解釈し、商売繁盛、家内安全、無病息災、安産等を祈るようになっていった。
市も最初は生活にかかわる物的交流だったのが、泰平のうちに生活にかかわりのない縁起物の市が立
ち、物見遊山の人の交流へと変っていった。
大衆の心のゆとりが、この「酉の市」を定着させ、庶民の文化になった、という。
縁起物の熊手は、値切り買いが常識で、まけさせた分を祝儀として払い、共に喜び手を締めたりする。
築地の波除神社が、非常によくまけるそうだ。
客の呼び込みに「まけるよ」と声をかけていたが、日露戦争以後「買った、買った」というようになった。
日本武尊は、弁慶のような身体の大きな人で、その武器の一つが熊手だった。
大鳥(鷲)に乗って現れる、その鷲の爪が熊手だという説もある。
(大鳥神社、鷲神社というのは、そこから来ていたのかと、初めて知った。)
十一月の最初の酉の日を一の酉、二番目を二の酉といい、年によっては三の酉まである。
よく「三の酉まである年は火事が多い」というのは、「酉の市の三度ある年は吉原が焼ける」という俗説に始まるらしい。
縁起物の熊手は、福徳を掻き込むという意で「はっこみ」と呼ぶ。
大きさは掌大のものから七、八尺くらいまであって、竹の熊手におかめの面、桝、大福帳、大判小判をつけたものや、宝船に七福神をつけたものなどがある。
樋口一葉『たけくらべ』の冒頭、見返り柳、お歯黒どぶに続いて、吉原裏の長屋が出てくる。
吉原に勤める人々の住まいだが、早くも正月から熊手を造り始める。
内職が暮らしを支えていたのだ。
吉原を始めて見るや酉の市 正岡子規
人並みに押されてくるや酉の市 高浜虚子
一葉忌ある年酉にあたりけり 久保田万太郎
後の月
陰暦九月十三日の月である。「十三夜」ともいう。
晩秋、十月末か十一月になる。
陰暦八月十五日はご存知「中秋の名月」、一年中で最も澄んで美しいとされ、月見をし「名月」「十五夜」の季題がある。
ほぼひと月遅れて陰暦九月十三日も「後の月」「
二夜
(
フタヨ
)
の月」と呼び、月見をする。
なぜ九月十三日で、九月十五日ではないのか。
満月ではなく、少しだけ欠けている寂しさが、深まる秋の寂しさにふさわしいからだろう、と草間時彦は言う(『カラー図説日本大歳時記』講談社)。
月を祀る風習は、稲作以前の文化だと考えられるのだそうで、「十五夜」を「芋名月」、「後の月」を「栗名月」「豆名月」とも呼ぶのは、芋、栗や豆などを供える、収穫の感謝の意味が込められている。
満月よりも十三夜の月のほうが、栗の形に近いから、「後の月」を愛で祀るのだという説もある。
二〇〇九年十月八日の「夏潮」渋谷句会で、「後の月」の季題研究をした児玉和子さんは、前掲歳時記の山本健吉の解説にある「仲秋以後、晩秋にもう一度、満月でなく少し欠けた月を賞するところに、如何にも日本人らしい選択があり、言わば、「花はさかりに、月はくまなきをのみ賞するものかは」(『徒然草』)といった気持がうかがわれる」という個所を、納得いかないとした。
日本人には「十三」という数に思い入れがあり、「十三」が好きなのではないか、というのだ。
そして「十三経」「十三宗」「十三仏」「十三
詣
(
マイリ
)
」という言葉を挙げた。
渋谷句会直後の十月十一日放送「NHK俳句」の兼題が「後の月」で、三村純也さんもまた、日本人の「十三」という数への思い入れや、関西の「十三詣」の習慣について語り、「お月様いくつ十三七つ」と歌ったのだった。
この「十三七つ」が何を意味するのか、かねて疑問に思っていた。
単純に合計して二十歳という説もある。
民俗学からいうと十三と七つは、日本の社会の通過儀礼の中で、特に強調された年齢だそうだ。
しかし、「十三夜」の七つ時(午後四時頃)の出たばかりの月のことで、まだ若いというのが、妥当なところではないだろうか。
樋口一葉の『十三夜』に、「今宵は旧暦の十三夜、旧弊なれどお月見の真似事に
団子
(
イシイシ
)
をこしらへて、お月様にお備へ申せし。……十五夜にあげなんだから片月見に成つても悪るし」とある。
十五夜と十三夜の両方を見るのが決まりで、片方だけを片月見として忌んだのだった。
洪水多き年を二夜の月晴れたり 正岡子規
露けさに障子たてたり十三夜 高浜虚子
遠ざかりゆく下駄の音十三夜 久保田万太郎
朝顔
「朝顔」が秋の季題だというのも違和感がある。
入谷鬼子母神の「朝顔市」は七月六、七、八日だし、「朝顔」の観察は小学一年生の夏休みの宿題の定番だ。
しかし「朝顔」という言葉には長い歴史があるのだそうだ。
万葉の山上憶良が美しい女性の寝起きの顔のような花という比喩で、朝貌之花と称して、秋の七草の一つに数えたのは桔梗。
つぎに輸入された
木槿
(
むくげ
)
が、さらに舶来の
牽牛子
(
けにごし
)
と呼ばれた現在の朝顔が当てられた。
牽牛子は牽牛花ともいい、その名は七夕の牽牛・織女から来ていて、旧暦七月七日つまり初秋の花という認識だったわけだ。
二百数十年平和が続いて、江戸時代は園芸ブームであった。
菊坂の菊畑、新宿百人町鉄砲組百人隊のツツジの栽培など、花作りを副業にする武士も多く、麻布や巣鴨の御家人たちも花を栽培して市場に出していた。
時代ごとに人気の花が変化して、元禄のツツジ、正徳のキク、寛政のカラタチバナ、そして文化文政のアサガオ・ブームが来る。
人々は品種改良を重ねて変化アサガオを競った。
文化五、六(一八〇八、〇九)年頃、下谷御徒町に住んでいた大番組与力の谷七左衛門、朝顔が好きで、その変種を作って楽しみ、並べた細竹に蔓をからませ、極彩色の屏風を立てた形にした。
人々は「朝顔屋敷」と呼んで見物に集まった。
七左衛門から種を分けてもらって、あちこちの空地で朝顔の栽培が始まり、「下谷朝顔」は江戸名物になった。
ここ十年ほど毎年、新暦の七夕に開かれる入谷鬼子母神の朝顔市へ行く。
早朝から、たいへんな混雑だ。
近年は一鉢定価二千円、これでひと夏楽しめる。
朝顔の鉢を提げて電車に乗り、入谷から遠く離れるほど、みんなが見る。
江戸の名残の、季節の風物詩という感じが色濃いが、入谷の朝顔市、江戸から連綿と続いているわけではない。
七左衛門の「下谷朝顔」が元祖で、下谷から入谷にかけて大輪の花を咲かせることが流行った。
しかし天保改革から幕末には朝顔どころではなく、いつの間にか廃れ、忘れられた。
それが明治の初めに「入谷」で復活、明治二十五(一八九二)年前後に最盛期を迎え、十数軒の植木屋が朝顔の異種を競った。
明治末年からは、この辺りが市街地になって、途絶える。
鬼子母神真源寺境内を中心に「入谷の朝顔市」として復活したのは、昭和二十五(一九五〇)年のことだった。
真源寺は戦後の地番改正で下谷一丁目、「入谷」ではないのがややこしい。
万太郎の句は昭和十九年作。
入谷から出る朝顔の車かな 正岡子規
暁の紺朝顔や星一つ 高浜虚子
あさがほやはやくもひゞく哨戒機 久保田万太郎
甘酒
「甘酒」が、なぜ夏の季題なのだろうか。
冬の寒い時に、温めて飲む印象が強いのに…。
柔らかく炊いた飯または粥に米麹を加え、発酵させて造る甘味飲料。
醴
(
アマザケ
)
。一夜に醸したのを「
一夜酒
(
ヒトヨザケ
)
」と称し、傍題。
江戸時代、真鍮の釜を据えた箱を担いだ甘酒売りが「アマーイ、アマザケェ」と売り歩き、
暑気払いに飲んだものだそうだ。
古今亭志ん生の小噺にこんなのがある。
「アマーイ、アマザケェ」
「おーい、甘酒やァ」
「へえ」
「あついかい?」
「へえ、おあつうございます」
「日蔭ェ歩きねえ」
それを見ていた男、おれも一つやってやろうと、
「おーい、甘酒やァ」
「へえ」
「あついかい?」
「へえ、飲みごろです」
「じゃァ、一ぱいくンねえ」
損しちゃったりする…。
神田明神の天野屋がその名残だが、甘酒は江戸市民の日常生活に欠かすことのできない「甘味源」で、ほうぼうに甘酒屋があった。
天野屋の地下六メートルには、
糀
(
コメカウジ
)
をつくる天然の
土室
(
ムロ
)
がある。
人形町「甘酒横丁」の名の由来も、明治初年水天宮の参拝客に人気の「尾張屋」という甘酒屋がここの入口にあったからという。
氷室に貯蔵した氷など庶民にはとても手の出ない高価なものであったろう。
人工製氷の嚆矢は、明治三年に福澤諭吉が発疹チフスに罹った時、親友の化学者宇都宮三郎が、旧福井藩主松平春嶽が外国人から買って持ってはいたが、使い方が分らず放置していた製氷器を借りてきて、原書と
首っ引きで試みたもの。
「苦もなく氷塊」「是れ実に本邦人造氷の元祖」の時事新報記事の他、水がやや冷たくなった「氷のたまご」程度だったという石黒忠悳の回想もある。
甘酒の釜の光や昔店 正岡子規
あま酒の看板まの字下手にして 高浜虚子
甘酒に老がすさびの戯作かな 久保田万太郎
主宰にご教示いただいた虚子の句は『句日記』にある。
「昭和十八年、十一月二十八日。爽波送別、杞陽招宴。鎌倉大佛。南浦園。」
夏の季題と承知で、真冬に平気で作っている。