4月号, 2010
「栃尾」 芳三郎
昭和九年(一九三四)八月、新潟県の中程にある栃尾市天ヶ島(現在、長岡市天ヶ島)に五人兄弟の末っ子として誕生。
日吉の慶應高校受験までを過ごした栃尾は、私にとって一生忘れる事のできない、懐かしくも大好きな町です。
栃尾市は霊峰「守門岳」を仰ぎ、刈谷田川と大布川に囲まれた風光明媚な地であります。
上杉謙信公が十四才から十九才までを過ごし、戦の籏を揚げて以後、連戦連勝した栃尾城から、遠くは佐渡島、弥彦山、越後平野が一望の下に眺められます。
一年の半分は雪の下という日本一の豪雪地帯であり、町並みの雁木は日本一といわれています。
昭和の中頃まで向かいの家に行くのに、雁木と雁木の間に雪のトンネルを掘って往き来したものです。
町の中央にある秋葉神社の公園には、芭蕉の句碑があります。
此のあたり目に見ゆるもの皆涼し 芭蕉
昭和の中頃までは織物の産地で、一時二百軒からあった機屋は、現在四、五軒が細々とやっている状態です。
名物の栃尾の油揚、手毬、錦鯉が現在産業として残っています。
故郷を離れて六十年、自由奔放に餓鬼大将として過ごした栃尾は懐かしい旧友の顔と共に、私にとって永遠に忘れることのできない、心の中で生きつづける町なのです。
2月号, 2010
「善福寺公園」 まり
私の家は、東京の西郊善福寺公園の西南に位置しております。
五十余年前、ぬかるみを歩くこと三十分余、欅の屋敷林に囲まれた藁葺きの農家、
雪の残るお稲荷さんの小さな祠、一面の畑という静寂な風景に、ここだと即決しました。
二人の娘はわが庭のような公園の池から、おたまじゃくしをすくってきて蛙に育て、蛹をとって蝶にするやら、
つくしんぼを摘んでおままごとをするやらと、自然の中で走りまわって育ちました。
現在では、すっかり屋敷街に変容しておりますが、氏神様井草八幡宮
(昭和十一年日本探勝会虚子先生曾遊)の鎮座する青梅街道も近く、
商店は昔の街道の風情を残すものもあり、銀杏並木の黄葉は美しい景観です。
また徒歩十分ほどの所に、星野立子先生、今井千鶴子先生の母校、東京女子大があり、
広大な校内は自然豊かで、殊に楓林の紅葉は見事。
山口青邨先生の句碑もあります。
北に向かえば四季折々の句材も豊富な千川上水が流れる好立地、昔は豊多摩郡と称した場所だけに、
東京とは思われない、まことに静かな環境です。
隣近所、何代も続いた地元の方々とは他人とは感じない暮らしです。
地元の方々は盆踊り大会、餠搗き大会、冬の火の用心の夜廻り等、年中行事を今も続けていてくださいます。
桜の頃、善福寺公園にお出かけください。
1月号, 2010
「オランダ」 浩子
ご主人の仕事の関係でオランダに数年住んでいる友人を訪ねた。
オランダの正式国名は「ネーデルランド王国」。
ネーデルランドとはオランダ語で「低い土地」を意味するとおり、国土の約四割が海面下だそうである。
オランダといえば風車にチューリップ。
子供の頃の絵本の中の牧歌的な風景である。
風車はかつて、九〇〇〇基近くもあったそうだが、現在は約一〇〇〇基が景観保全の為に保存され、
そのうちの何基かは現在でも現役として動いているそうである。
オランダは運河の国でもある。風車によって汲み上げられた水を海へ流す運河が縦横に走っていて、
運河のない町は珍しい。
どの町も運河に沿って瀟洒な建物が連なる。
ちょっとした船着場もあって、そこにはカフェがあり、木蔭のあるベンチがあり、
花の咲き溢れるかわいい家があったりする。
私の大好きな町デルフトも小さな運河の流れる、中世の雰囲気が残るとても素適な町。
白地にデルフトブルーという魅力ある青のデルフト焼が有名だが、フェルメールの故郷としても知られている。
オランダ独立戦争の銃痕の残る建物や旧教会などを見て歩くと、中世にタイムスリップしたような気分になる。喧騒の都会とは違い、水と緑と花の町は心に潤いとゆとりを与えてくれる。
観光として訪れた他の国々の町は感動も思い出も盛り沢山だけれど、
僅かながら日常のくらしとして歩いた町は人との出逢いも忘れられない町である。
12月号, 2009
「志木」 睦子
私の好きな町といえば、勿論、現在私が住んでいる志木である。
広い空と畑、そして林といった自然に恵まれ、空気もおいしく大好きである。
他所から移住して来た私が、土地の人でもあまり知らない志木の自然の素晴らしさを知っているのは、
毎日愛犬(ルルちゃん)と朝・夕二回散歩するお蔭であると思っている。
志木には埼玉県の木である欅の、高さ三十米以上もある大樹が林立し、夏は日傘となって日蔭を作り、
冬は葉を落として冬の陽をさんさんと降り注いでくれる。
葉を落とした欅の複雑に交錯した枝はまるでオーブジェーのようで、朝焼けや夕焼けを背景に影絵のように浮かぶ姿は素晴らしく、
私はそれを見に愛犬を連れて散歩をする。
大欅枯木のオーブジェー夕日背に 睦子
志木は川の町で、家の近くを流れる柳瀬川の堤には、三キロにわたって桜並木が続いている。
桜の咲く頃になると私は毎朝愛犬を連れて、この桜並木を歩く。
途中にある富士見橋より雪に覆われた秀麗な富士山を眺め、川に沿ってどこまでも歩く。
犬連れて朝の挨拶花堤 睦子
家のすぐ近くには大塚の延命のお地蔵様があり、いつもお線香と季節の花の供華が絶えない。
待ち合はすお地蔵様に萩の供華 睦子
10,11月号休載
9月号, 2009
「日吉」 寿恵子
東横線の日吉駅より徒歩で十分ばかり。
此の地に住んで三十年余りになる。
以前はまだ大分田舎が残っていた。
住めば都とはよく言ったもので、今は此処が大分気に入っている。
家の前はなだらかな雑木林の丘。
春はたおやかに伸びる細枝に新芽の萌えるころが一番きれいで好きである。
木の芽伸ぶきのふ驚き今日驚き 虚子
家から二三分坂を登ると、台地に慶應大学のテニスコートや寮があり、また彌生時代住居址群という遺跡もある。
四個の竪穴式と一個の横穴式石室の玄室部がコンクリートで固められて保存されている。
このような彌生時代後期住居群がよく保存されているのは例が少なく、考古学上貴重な遺跡とある。
ゆるやかな下り道を行くと、遠く富士山の見えるスポットがある。
雪の富士、夕焼けに染まる富士など、心いやされる道である。
日吉駅から慶應大学に向かう真っ直ぐな銀杏並木。
この道も好きでよく通る。
秋の黄葉の頃は一段と壮観である。
そして冬。枯葉一枚残さぬ枯木ぶりも潔く堂々としている。
日吉駅は県の駅百選に選ばれた駅である。
昨年は地下鉄グリーンラインも開通し、なかなか都会的な風景になってきた。
今は、多分ここが終の住処になるであろうと思っている。
8月号, 2009
「秩父」 悦子
私の生まれ育った秩父。
秩父市をさらに奥へ入ったところの、幾筋もの谷が襞を重ね合う小さな谷間の町。
昔「困民党」一揆が町を駆け抜けた歴史もあり、鄙びた蚕の里であった。
昭和十七年、私は国民小学校へ入学。
当時戦時下で物不足もいよいよという時だけに、教科書などあまり良い紙質ではなかった。
国語の教科書はカタカナで始まり、サイタ、サイタ、サクラガサイタ。
次のページを繰ると、ススメ、ススメ、ヘイタイサンススメと、足並み揃えて兵隊さんの行進する絵が載っていた。
校庭は広く、真東に奉安殿が祀られ、私たち生徒は朝礼のときに先生と奉安殿に向かって最敬礼をした。
出征兵士の見送り、勤労奉仕などが授業の一環となったが、不便不足はあっても当時子供はとても元気だった。
秩父路がさ緑に萌えるころ、遍路人の白装束が目を引く。
「三十四番観音霊場」札所巡り。
石灰採掘の山、武甲山は秩父盆地のシンボル。
今なお採掘が続けられ、山容も以前に比べ貧相となった。
夏空に石灰岩も露わな武甲山が聳える。
秋、収穫も終わり農作業が一段落するころ、秩父の郷は祭り一色となる。
里神楽、秩父歌舞伎は町人が役者に化け、白塗りして舞台に立った。
秩父神社例大祭の十二月二日三日は、御旅所に向かう笠鉾と屋台のお練り、鉦や太鼓に湧きたつ。
祭りが終わると、山々は静かに紫に灰色に色を違えて眠る、一番穏やかな季節となるのであった。
7月号, 2009
「博多」 由紀子
自宅のある北九州から博多まで一時間、車や電車で何度往復しているだろう。
息子や娘が進学のため博多に住み始めてちょうど十年になる。
卒業後も市内で働く子供たちと天神界隈で食事をするのを楽しみにしているこのごろだが
「博多はいいよ」という子供たちの言葉に昔の自分が重なる。
四年間大学生活を過ごした博多。
同じ高校の友人と始めた下宿生活は戸惑うことばかりだったが、学業以外に学ぶことが多く
貴重な時間だったように思う。
住んでいた西新地区には、今でも名物になっているリヤカー部隊が道の中央に並び、
産地直送の新鮮な野菜や魚貝類を売っていた。
自炊をしていたので毎日のように授業の後に買い物をし、おいしいコロッケ屋さんとは顔なじみになり
「おまけだよ」の声に笑顔で応えていた。
親元を離れての生活に人情味のある街はありがたかった。
そして周りの博多弁を真似して、何の語尾にも「くさ」や「たい」を付けて自分も博多人になろうとしていた。
あれから三十数年が経つ。
大学裏の松林や白砂の浜は埋め立てられ福岡タワーやヤフードームが建ち、
西新地区は地図を見ながら歩く街になった。
年月と共に街が変わるように、あのころの思い出は日々薄らいでいくが、
子供たちもこの街で多くの人と出会い成長してきたのだと思うと、
やっぱり私にとって博多は大切な街である。
6月号, 2009 休載
5月号, 2009
「奈良」 晶子
四十年近く前、奈良市郊外の小さな町で新婚生活を始めて以来、
私たち夫婦にとって奈良が懐かしい、そして大切な町のひとつになりました。
長男の名も寧楽から一字採ったほどですし、夏の早朝、お宮参りで詣でた春日大社は
本当に清々しい、美しい思い出になっています。
私たちの住まいは佐保、佐紀の更に山寄り、近鉄学園前駅から少し奥に入った所で、
興福寺や東大寺、県庁などのある奈良市中心部へはバスと電車で二十分、
大阪みなみのターミナル難波へは三十分と大変便利な所でした。
駅付近には駅名の由来ともなった帝塚山学園はじめ、富岡鉄斎の書画や、
松浦図屏風などで有名な大和文華館、関西屈指の高級住宅街があり、
落ち着いた文化的な香りが漂っていました。
家のベランダに出ると西に生駒山が間近に望め、夜ともなると麓から山頂まで
ロープウェイ沿いに灯りがともり、何ともきれいな眺めでした。
一方、左手、東の方には東大寺の屋根の鴟尾が金色に輝いているのが見えましたし、
若草山の壮麗な山焼きも居ながらにして楽しめ、そんなところに住む幸せを感じたものです。
当時、私は関西に友人もおらず、大阪勤務の主人と二人、休みの日だけの奈良散策でしたが、
今ならもっともっと古都住まいを楽しめましたのにと、一寸残念です。
そうそう、数年前、車で辺りを通った時、まるでミニ自由が丘のように変貌していて
年月の流れを感じたものです。
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